2009-11-09

洞口依子映画祭パンフレット

Dscf1778

 シネマヴェーラの〈洞口依子映画祭〉に行く。映画は『君は裸足の神を見るか』、『ミカドロイド』というレアな二本。『ミカドロイド』は手榴弾が炸裂する瞬間の洞口依子の恍惚の表情を舐めるように撮ってるのが、まあ、いいかな、と。

 今日は相対性理論の「地獄先生」PV上映+ミニライブということで、てっきり満員御礼と思いきや、最終回に行っても普通に整理券をくれたのでラッキー!とライブを見ていく。ライブに合わせて白いふりふりのワンピースで出てくる洞口さん。ああ、オレ洞口さんのこと見てるといろんなところがきゅんきゅんするんだよ。

 ライブはpaititi(洞口依子のウクレレ・ユニット)の演奏でやくしまるえつこが歌うというレアなもの。曲は「地獄先生」「スマトラ警備隊」「LOVEずっきゅん」の三曲。「ウクレレだから膝かっくんですよお~」と洞口さんは言っていたが、なんかほのぼのしてていいもんでしたよ。

 本日は来場者に「非売品」のパンフレットが配られていた。これ、全日あるのかどうかわからないけど、もらえるうちにもらっておいた方がいいですよ。8inchサイズのレコジャケ風のケースに篠山紀信撮影の写真や本人による作品解説などが入った素晴らしいもので、これだけで入場料の元は取れる感じ。

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2009-11-08

天使の恋 (2009)

監督・脚本:寒竹ゆり 出演:佐々木希 公式サイト

ファッション雑誌にもモデルにもとんと興味のないぼくにとって、佐々木希というのは「tumblerで流れてくるやたら可愛い女の子」である。tumblrで流れてくるとき、そこにはなぜか「のまさん、どうぞ」とタグが打たれている。「のまさん」がどこの誰だかぼくはまったく知らないのだが、佐々木希の写真をreblogするときの礼儀であるらしい。そういうわけなんで、「のまさん、どうぞ」

「17歳のとき」とデカイ字幕が出る。次のカットでは裸で腰にシーツをかけただけの佐々木希が湾岸のお洒落ホテルで夜景を見ているバックヌード。まわりには万札がばらまかれている。17歳にして金で身を売り、「パパ」に高級マンションをプレゼントしてもらう女である。学校へ行くとどんくさいメガネっ娘がイジメられている。「金持ってこれないのか? じゃあおまえのヌード撮ってインターネットのサイトで晒してやるよ、ほれ脱げ!」と迫るイジメッ娘。あわやネットにヌードを晒されそうになる女の子は『仮面ライダーW』でおなじみ山本ひかる……ってこれ笑うとこか? どうなのよ!

あわやというところで佐々木希が助けに入り、「うんこちんぽこ」の悲劇は避けられた! だがこれは実はすべて佐々木希が仕組んだ罠だったのである。彼女は山本ひかるに恩を売って援交仲間に引き込み、がっぽり稼がせようという腹だったのである。山本ひかるが身を売ると、その相手を佐々木希の彼(ただし金を払わないとやらせてもらえない)が脅す美人局で二度美味しいという仕掛けだ。ついでに山本ひかるを脅していたいじめっ娘ともベッドでレズっている佐々木希である。男も女も佐々木希の身体によってとりこじかけのあけくれに!

そんな「セックスのファンタジスタ」佐々木希だが、ある日、写真の取り違え(今時女子高生が銀塩写真!)から同姓の日本史専攻の大学助教授と知り合いになり、びびっと恋をする。いきなり恋する乙女になった彼女は先生の元に押しかけてにわか歴女となり、「愛」の字のついた直江兜をかぶって彼氏と古戦場デートにいそしむのだった……

わかってはいましたが、世の中いろんな映画がある。前半、セックスの魔女時代の佐々木希はやたら脱ぎまくるので無駄にエロくてたいへんよろしい。ただ、ファンの女の子がこんなビッチきわまりない佐々木希を見て喜ぶのかどうかは大いに疑問だったりするが。

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2009-10-26

僕の初恋をキミに捧ぐ (2009)

監督:新城毅彦 出演:井上真央、岡田将生 主題歌:平井堅 公式サイト

 監督は『ただ、君を愛してる』とか『Life 天国で君に逢えたら』とか難病映画で人を殺しまくってるティア・マイスター。殺した男女は五万人、サバ言うなこのヤロー!いやだが今度はただの難病映画と思ったらおおまちがいだ!

 映画がはじまるといきなり病院のベッドの上でお医者さんごっこをしている小学生の男女。女の子が男の子の胸に聴診器を当てて
「うーん。心臓がすごく早いですね。精密検査が必要です。じゃあズボンを脱いで下さい。パンツも脱いで」
「えっ!」
「何を言ってるんですか。わたしは専門家だから大丈夫です。さあ早くパンツ脱ぎなさい。パンツ脱げ-!」
 と少年に襲いかかってパンツを脱がそうとするようじょ。ほうほうのていで逃げ出した少年は両親を探しに行く。と、両親は医師の仲村トオル(変態幼女の父)から病状告知を受けている真っ最中であった。
「残念ですが息子さんの心臓は不治の病です。二十歳までは生きられないでしょう」
 がーん! 少年は自分の余命を知ってしまったのであった。追いかけてきた変態幼女も当然知ってしまうのだった。

 翌日、少女は必死で四つ葉のクローバーを探している。「四つ葉のクローバーの神様に祈ると願いがかなうのよ」と教えられた少年は「ぼくは宇宙飛行士になって繭ちゃん(変態幼女)と結婚する!」と無邪気に言うのだが、四つ葉を見つけた少女に突き飛ばされる。少女は涙をボロボロ流しながら「タクマくんの病気を治してください命を延ばして下さいおねがいです……」と祈るのだった。それに気圧された少年は思わず繭ちゃんを抱きしめてディープキス……ってどうなってんだよこの小学生たちは!

 時は流れ二人は中学三年生になっている。タクマくんは優等生だが繭ちゃんはバカになった。繭ちゃんが歩いていると、同級生がなぜかいきなりバケツで水をぶっかける。透けブラを見ようという周到な作戦だ。心臓が悪いので体育の授業もつねに見学のタクマくんは「俺より先にブラを見やがって!」と怒りのあまりいたずら三人組をボコりまくる。「やめて!そんなに見たいなら見せてあげるから!」と保健室で体操着をまくりあげる繭ちゃん。
「待って……心臓がおかしくなりそうだ!」

 そんなこんなでラブラブな二人だが、自分の余命が長くないことを知っているタクマくんは繭ちゃんには行けそうもない全寮制のエリート高校を志願して自然消滅をはかるという卑怯な手に出ます。寂しそうな繭ちゃんは滑り止めもみんな落ちて就職組。予定通りになったけど、なんか寂しい……と思いながら紫堂高校の入学式に出かけたタクマくん。そこで新入生総代として壇上に上がったのはなんと繭ちゃんだった。
「あんたの考えなんかお見通しなのよ! あたしだってちょっと勉強すりゃこんなとこ入るの屁でもないんだから! あたしから逃げようなんて十億万年早いわ!」と全校生徒の前でタクマにプロポーズ、止めようとした先生もふっとばす繭ちゃんなのだった。

 ここまで惚れられたらさすがに応えなければ……と思ったタクマくんは主治医の仲村トオルに相談をもちかける。
「あの……ぼく激しい運動禁止ですよね? たとえば……SEXとかどうですか?
 娘とセックスしたい!と言われた仲村トオルは思わず激怒!
「父親として……いや医者として言うが、やめておけ! あれは結構ハードな運動だ!

 いやーすごい。これでまだ半分くらいで、このあとさらに波瀾万丈の展開がてんこもりでもうとてもこんなところには書ききれない! オレは見ながらひたすらクックッと笑いをこらえていたけれど、まわりではズルズルとすすり泣きが聞こえていた。「五回も泣いちゃった」「もうはじまる前から泣いてた」の声も。 最後はなんかホラー映画みたいになってましたが。泣くのかあれやっぱり。

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2009-10-21

麻瘋女 (1939)

監督・脚本:馬徐維邦 TIFFアジアの風 にて

『深夜の歌声』の怪奇映画監督馬徐維邦の旧作。英語タイトルはLeper Girl。そう、麻瘋というのはあの病気のことなのだ。すでにこの時点で翻訳不能なのだが、かつて中国では麻瘋病は他人に感染させると治ると言われていたらしい。したがって物語はさらにヤバイ方向に……

 清代、尾羽打ち枯らした若者が放吟しながら歩いていたところ、奇特な人物からさる富農の婿にと見込まれる。相手は才色兼備の娘だというので降ってわいた幸運に喜んでいると、新婚初夜、娘は思わぬ告白をする。実は娘の住む村は麻瘋を風土病としてもつ土地で、若い娘はみな麻瘋を病んでいる。そこでそのことを知らぬ者、財産目当ての浅はかな男を婿にとって、麻瘋を感染させたのち、本当に結婚したい相手と再婚する風習があるのだ。だが、生真面目な娘は自分のために何も知らない相手を殺すのも嫌だし、二夫にまみえるのも嫌だった。若者があまりに哀れなので、感染させずに死んでいくつもりなのだ。

 女の真心に男も打たれて二人は愛し合う仲になるが、なんせセックスしたら病気がうつってしまうので三日間同衾すれども手を出さず。濃厚なエロティシズムがたちこめる。三日目にとうとう男は旅立つのだが、その際、感染しているように見せかけるため、娘は若者の全身にキスマークをつけ、発疹に見せかけるのだ!

 しかもこれがミュージカル仕立てなものだから、途中「♪麻瘋~ 麻瘋~ これにかかったら一族郎党縁切り~」とか「♪わたしの手は腐れて顔は焼けただれ~」みたいな美しい歌がそこここに入る。麻瘋が発病して療養所にたたき込まれた女は、男に逢いたさのあまり男の家まで乞食となってたずねていく。男は科挙に合格して大成功している。最後は怪奇映画的な名場面のあと、女が奇跡的に麻瘋が治ってハッピーエンドなのだが、ここは男が娘のことを忘れてきれいな嫁さんもらっていて、麻瘋女の大復讐となってほしかったところだ。

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2009-10-14

RiP! リミックス宣言 (2008)

監督:ブレット・ゲイラー 公式サイト

(承前)

 山形ではコンペ中心に何本か映画を見た。グランプリを受賞したカナダの『包囲--デモクラシーとネオリベラリズムの罠』はハイエクあたりからはじまってネオリベラリズム思想がいかに世界に浸透し、世界銀行、IMF、WTOの三つのしもべを使っていかに貧困と格差のグローバリズム社会を作っているかを論じる山形浩生が見たら口角泡を飛ばして罵倒しそうな映画だった(もちろんシンクタンクも悪の枢軸の一員なので無問題)。あるいは『アムステルダム(新)国立美術館』では
,アムステルダム国立美術館の改装計画が「通路を守れ!」をスローガンに掲げる自転車乗り団体(オランダではサイクリストは最強のロビイストなのである)の抗議のせいでいつ終わるともしれない仕様変更地獄に陥ってしまう。あるいは特別招待作品の『こつなぎ--山を巡る百年の物語』では山の入会権をめぐる争いが描かれる。そして『RiP! リミックス宣言』である。これは引用とリミックスの自由を訴え、ディズニーをはじめとするエンターテイメント・メジャーの「過去からのコントロール」を脱しようと宣言するオープンソース映画だ。実際にサイトから映画をダウンロードしてリミックスすることが推奨されている。

 公式カタログの藤岡朝子氏によれば、ここで問題になっているのは「コモンズ」である。人は何を自由に使えて、何を制限することができるのか? それは経済の問題なのか、それとも倫理の問題なのか? ぼくには今回の映画祭自体が観客に対してその問いかけをしているように思えてしかたなかった。そして、その中心にあったのがまさにブレット・ゲイラーのこの映画である。『RiP!』は特段映画的瞬間にあふれているわけでもないし、その意味ではいかにもオープンソースの産物である凡庸で教科書的な作品とも言える。だが、にもかかわらず、この映画こそが、ギィ・ドゥボールの挑戦にもっとも真摯に応えているものにも見えるのである。実際『RiP!』はかなり賛否両論かなり激烈な反応を引き起こして、監督協会シンポジウムでは「映画の著作者は映画監督である」という主張を奉じる映画監督たちから吊し上げにあったりしていたほどだ(だが金子修介は山本鈴美香に原作料を払ったのだろうかね)。問題を引き起こすことこそが映画祭の中心がどこにあったのかという証明である。「自由な社会を創るためには、我々は過去からのコントロールを制限しければならない」!

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2009-10-13

We few, we happy few, we band of brothers

 山形ドキュメンタリー映画祭'09 山形はいつも新たな刺激を与えてくれる映画祭である。ところで第11回の今回なのだが、いつもは驚きとともにあるコンペティション部門が、どうも地味だった。良くも悪くも予想外、規格外の映画を放りこんでくるのが山形のコンペティションなのだが、今年はどうも出来はいいのだが突出したところがない。自然、自分にとって今回のハイライトはギィ・ドゥボール特集ということになった。

 今回ギィ・ドゥボールの映像作品全六作が上映された。それはやはりきわめて刺激的な体験だった(あえて「映画体験」と言うのはよそう)。ただ、ドゥボールがまさに「映画に(反)対して」いたことを思うと、それを「ドゥボール特集」なる作家レトロスペクティブとして見なければならないことには矛盾も感じる。だが、これは仕方ないことである。つまり体験はつねに一度きりのものなのであり、それを反復しようと考えた瞬間にスペクタクル化がはじまるのだから。『サドのための絶叫』は初上映こそスキャンダルになったわけだが、そこで何が待っているかを知っている我々にとっては作品でしかないのである。つまり、我々にとって、この映画をスペクタクルとして鑑賞しないことは不可能なのだ。

 誤解を恐れずに自分の理解しているところを荒っぽく適当に述べるなら--だがもちろん誤解を恐れていては黙っているしかないので--ギィ・ドゥボールは現代メディア社会の問題を最初に指摘した人であり、マクルーハンからバラードにいたるメディア思想家の元祖である。すなわちドゥボールは我々の「体験」はメディアによって規定されていると指摘した。我々はメディアにより「生」から疎外されている。「我々は欲するものを見たいのではなく、見るものを欲するのである」911テロを見たとき「まるで映画のようだ」と感想を述べた人はもちろんその衝撃を味わいそこねているわけだ。ゆえにドゥボールはスペクタクルから逃れた真の生を希求し、それは五月革命へと結実する。五月革命の瞬間、そこには真の生があった。あるいは参加者たちはそのように美しくも誤解した(だからドゥボールもまた、美しくも特権的にその瞬間を回想するのである)。だが、もちろんその行為は反復できない。今五月革命をくりかえそうとしても、いや当事者にとってすら、それはグロテスクなパロディでしかない。体験は反復できないからこそ体験なのだ。

 であれば我々がスペクタクルから逃れるためには新たな手段、新たな闘争を発明しなければならない。それが今回の山形映画祭のテーマでもあったように思う(この項続く)。

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2009-10-03

空気人形(2009)

朝日新聞9/25付け夕刊に寄稿した『空気人形』の映画評が朝日新聞のサイト[どらく]に再録されています。よろしければお出かけ前にお目通しください。

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2009-09-30

Three Miles North of Molkom... (2008)

 久しぶりのロンドン。主目的は『フロム・ヘル』出版前に切り裂きジャックを再訪しようということだったんだけど、当然それだけで済むわけもなく、映画と書店三昧。Three Miles North of Molkomというドキュメンタリー映画を見る。

 Mollkomというのはスウェーデンの田舎町なのだが、そこから三マイル北にいった森の中で毎年数千人のヒッピーが世界中から集まってくるNo Mind Festivalなるヒッピー祭りが開かれるのだ。そこでは自然を愛し、自分の身体について学び、タントラ・セックスを学ぶ。つまりフリーセックスなのである。別にそれを推奨してるわけではないんだろうけど、男女が裸でゴロゴロしてればやることはやるわな。おそらくそれ目的で来てる奴もいると思われるが、大多数は真面目なヒッピーで、森に入って木を抱きしめて自然と交感したりしている。いかにも馬鹿馬鹿しい……だが、これがなかなかどうして面白いのだ。

 ドキュメンタリーにはフェスティバル参加者である七人の男女が登場する。世界中から集まってきたバックグラウンドもさまざまな男女が、ワークショップを経験していく中でどう変化していくかが描かれるのだ。オーストラリアから来た元ラグビー選手は「あなたの痛みを愛するだって?こんなくそヒッピーな戯言はねえよ!」とか毒づいているが、火渡り(Firewalk)の儀式を経験してからはすっかりハマりこんでグループの優等生になる。人生でつねに負け組だったというスウェーデン人の元ソーシャルワーカーだかの中年女が、上から目線が鼻持ちならないグループのリーダー「シッダルタ」についに反抗する場面は痛快だ。その「シッダルタ」が実は非モテだったと判明する場面は泣ける。

 外気功で吹き飛ばされて痙攣してみせるインストラクターを嗤うのはたやすい。だが、「やる側が本気で信じてないと気功は効かないんだ」というインストラクターの言葉は多分本当だ。信仰体系としてはこれは何ひとつ間違っていないのだ。ワークショップの過程で参加者はかならず何かしら神秘体験をし、何かしらの悟りを開く。頭で考えているとただくだらないだけで、なぜこんな戯言にみんなひっかかるんだろうとか思ってしまうだろう。だが頭でどんなに馬鹿にしても肉体的鍛錬は裏切らない。そして神秘体験はつねに肉体的なものなのである。人間がそういう存在である以上、このヒッピーたちが見ているものもやはり「真実」なんじゃないか、と思うのだ。

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2009-09-14

しんぼる (2009)

監督・脚本・主演:松本人志 公式サイト

 かなり積極的に見たくなかった映画である。なぜかというと松本さんのファンの人はたいそう粘着質にしつこいからだ。左カラムの「最近のコメント」を見てもらうとわかるように、いまだに『大日本人』と『ひぐらし』についての記事だけはファンから執拗にコメントがつくのだ。もういい加減にみんな忘れようよ!オレはもう『ひぐらし』のことなんかとっくに忘れたよ!

 ある日「ぼく」が目覚めるとそこは真っ白な部屋だった。壁からは小便小僧のちんこみたいなものが突き出している。「ぼく」がちんこを押すと、きゅっという音がして、壁からタイプライターが飛び出した。「ぼく」はタイプに向かって助けを求める手紙を打ちつづける……

 あーごめん。途中で「リスの檻」(トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』所収)が混ざってしまった。というか、こういう話はそういうかたちにしか着地しようがないんですよ。もちろん松本さんはディッシュなんか読んでるわけないんで、おそらく『CUBE』かなんか見て思いついたんだろうけどさ。問題はだね、松本さんはこれが40年前のニューウェーヴ小説だってことに気づいておらず、作りながらこれが自分の話だってことを発見してるんですね。だから物語は壮大なスケールで創作者の苦悩と喜びを訴え……

 ……セカイ系ってこういうことかなあ、などと思いました。やっぱりこの手の話に必要なのはディッシュの含羞であって、間違っても松本さんのナルシシズムじゃないのよ。

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2009-08-28

海よおいらの歌に泣け(1961)

 監督:田口哲 出演:白根一夫、万里昌代、天知茂  TCC試写室での自主上映会にて

 出演者も監督もまったく無名の作品。1961年、新東宝の配給で公開された幻の映画が自主上映で復活。というわけでさっそく駆けつける。主演の「白根一夫」もまったく知らなかったんだが、東芝からデビューしていた歌謡歌手らしい。物語はフェリーの船員をやってる主人公が美声をかわれてバンドの歌手にスカウトされるが、父の猛烈な反対にあい(「おまえを夜学にやったのは人前で歌わせるためじゃない!」)、飛び出すように家を出る……という筋立て。

 もちろん最後にはめでたしめでたしになるのはわかっているのだが、そこまでの苦労の描写が酷すぎて笑った。海岸で歌っていた彼の声を聞いた東芝の部長がその声に惚れこむのだが、名前を聞きそびれたせいで以下どうしようもないすれ違いドラマが演じられる。ひたすら歌手と部長がひたすら「きみの名は!」とすれ違い続けることで物語を引っ張るのである。主人公がまったく演技できないせいで、何があってもただ黙って突っ立ってるだけだというのは笑うしかない。

 猫型女優としておなじみ万里昌代はバンドが居候するバーの娘(でもちろん主人公に恋をする)。特別出演の天知茂は落ちぶれて流しをしている主人公の声を聞いて「こんなところで流しをするような人間じゃないはずだ!」と助けの手を差し伸べようとする顔役でワンシーンだけの顔見せ。格闘シーンでは天知がカメラに向かって拳を振りまわす!(殴られる側の主観ショット) 残念ながら天知の善意はすれ違い攻撃の前には無力なのであった。

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