PSH RIP
フィリップ・シーモア・ホフマンが死んでしまった……なんでこんなことが起こるのだろう? フィリップ・シーモア・ホフマンが。ODで。ショックだった。あまりにも。フィリップ・シーモア・ホフマンは素晴らしい俳優だった。オスカーだって取った。でも、だから悲しいということじゃない。いやそりゃあ優れた俳優が死んだら悲しいけど、そんなことでこんなにショックは受けない。フィリップ・シーモア・ホフマンはぼくの友だった。いつだって、そこにいてくれる人だった。フィリップ・シーモア・ホフマンだけはぼくを裏切らない、とずっと思っていて、そして実際一度たりとも裏切られることはなかった。
ぼくの大嫌いなキャメロン・クロウ監督作品『あの頃ペニーレインと』のフィリップ・シーモア・ホフマンは、彼が演じたさまざまな役の中でぼくがいちばん好きだった役である。そのことについて昔〈ぴあ〉に書いた原稿がある。『シー・ユー・ネクスト・サタデイ』という本に再録したはずだ。
映画を見おわったとき、身も心も主演スターになりきってしまうことがある。『ドラゴンへの道』の劇場から出るときみな爪先立ちでステップを踏み、『ダーティハリー』の後は肩をいからせて大股に歩く。それがスターの力である。自分もあんな風になりたい、と観客に思わせてしまうのがスターの力なのである。だが、その一方で、どんな映画に出ても「絶対にあんな人間にはなりたくない」と思わせてしまう俳優もいる。いわば反スター的存在なのだが、彼らが恐ろしいのは「あんな人間にはなりたくない……でもあれはオレそのものだ」と思わされてしまうところにある。見たくはなかった自分の本当の姿を見せつけてくれるのである。フィリップ・シーモア・ホフマンはそんな男である。フィリップ・シーモア・ホフマンは決して裏切らない。どんな映画でどんな役をやっても、絶対にモテないし暑苦しいしウザったいのである。キャメロン・クロウが過去を美化しまくる自伝的作品においても、ホフマンだけは誠実だ。ホフマンが演じているのは主人公の師となる音楽評論家レスター・バングス。バングスはバンドのツアー同行取材で落ちこんだ主人公に語りかける。「いいか、ミュージシャンはクールな奴らだ。あいつらはクールだから女にもモテる。でも、音楽について文章を書いてるオレたちはクールじゃない(=ダサイ)人間なんだ」そう、映画を見てスターになったような気になることもある。だけど映画について文章を書いているぼく、映画を見ているあなたはスターではない。その絶対的な悲しみこそが映画に向かわせるのだ、とホフマンは語るのである。そしてまた電話してもいいですか?と訊ねる主人公に、ホフマンは優しく答える。「大丈夫。オレはダサイ人間だから、いつも家にいるよ」ホフマンさん、ぼくも電話していい?
ああ、これからぼくは誰に電話すればいいんだろう?
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