We few, we happy few, we band of brothers
山形ドキュメンタリー映画祭'09 山形はいつも新たな刺激を与えてくれる映画祭である。ところで第11回の今回なのだが、いつもは驚きとともにあるコンペティション部門が、どうも地味だった。良くも悪くも予想外、規格外の映画を放りこんでくるのが山形のコンペティションなのだが、今年はどうも出来はいいのだが突出したところがない。自然、自分にとって今回のハイライトはギィ・ドゥボール特集ということになった。
今回ギィ・ドゥボールの映像作品全六作が上映された。それはやはりきわめて刺激的な体験だった(あえて「映画体験」と言うのはよそう)。ただ、ドゥボールがまさに「映画に(反)対して」いたことを思うと、それを「ドゥボール特集」なる作家レトロスペクティブとして見なければならないことには矛盾も感じる。だが、これは仕方ないことである。つまり体験はつねに一度きりのものなのであり、それを反復しようと考えた瞬間にスペクタクル化がはじまるのだから。『サドのための絶叫』は初上映こそスキャンダルになったわけだが、そこで何が待っているかを知っている我々にとっては作品でしかないのである。つまり、我々にとって、この映画をスペクタクルとして鑑賞しないことは不可能なのだ。
誤解を恐れずに自分の理解しているところを荒っぽく適当に述べるなら--だがもちろん誤解を恐れていては黙っているしかないので--ギィ・ドゥボールは現代メディア社会の問題を最初に指摘した人であり、マクルーハンからバラードにいたるメディア思想家の元祖である。すなわちドゥボールは我々の「体験」はメディアによって規定されていると指摘した。我々はメディアにより「生」から疎外されている。「我々は欲するものを見たいのではなく、見るものを欲するのである」911テロを見たとき「まるで映画のようだ」と感想を述べた人はもちろんその衝撃を味わいそこねているわけだ。ゆえにドゥボールはスペクタクルから逃れた真の生を希求し、それは五月革命へと結実する。五月革命の瞬間、そこには真の生があった。あるいは参加者たちはそのように美しくも誤解した(だからドゥボールもまた、美しくも特権的にその瞬間を回想するのである)。だが、もちろんその行為は反復できない。今五月革命をくりかえそうとしても、いや当事者にとってすら、それはグロテスクなパロディでしかない。体験は反復できないからこそ体験なのだ。
であれば我々がスペクタクルから逃れるためには新たな手段、新たな闘争を発明しなければならない。それが今回の山形映画祭のテーマでもあったように思う(この項続く)。
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