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2008-05-21

ボスニア内戦

51o54giujol_sl500_aa240_ 朝日新聞の書評を見て購入した佐原徹哉『ボスニア内戦』(有志舎)を読む。ボスニア内戦の原因とその経緯について、すばらしくよく調べられ、簡潔にまとめられた好著。著者、ぼくと同い年なんだなあ。これを読んでしみじみ思ったのは、人間はいかに愚かなのかということである。人間は愚かで進歩を知らない生き物だ。こんな一節がある。

ジラスが村に入ると、頭を後ろから撃ち抜かれた二人の農夫の遺体が大きな梨の木の下に横たわっていた。そこでは他に六人が殺され遺体は運び去られていたが、幾つもの黒ずんだ血跡が草の上に残っていた。さらに進むと、道の真ん中に二〇人程の遺体が山になっていた。成人男性の遺体は二つしかなく残りは女性と子供たちだった。近くにはまだ温もりが残る揺りかごが転がっており、頭部を砕かれた嬰児の死体が傍らにあった。赤ん坊の左側には胸部を叩き潰され腹部がぷっくりと膨らんだ女の子の遺体があった……

 これはスレブレニツァでのセルビア人によるボスニア人虐殺を描 写した文章ではない。一九四一年、ウスタシャと呼ばれたクロアチア民族主義者たちによるセルビア人虐殺について書いたものである。第二次世界大戦中、ドイツと結託したウスタシャはセルビア人に対する猛烈な迫害をおこなった。セルビア人過激派チェトニクもまた、負けじとテロと残虐行為で応酬した。これだけの残虐行為を繰り返せば、さすがに人間、少しは利口になろうというものだ。だからこそチトー率いる新生ユーゴスラヴィアは過去の反省にのっとり、反民族主義による国民の融合をはかったのだ。だが、クロアチア大統領トゥジマン、セルビア大統領ミロシェヴィッチらが権力奪取のために反連邦主義、民族主義を煽りたてると、五十年間の聡明なるチトー主義の薫陶はもろくも崩れ去り、人々は血で血を洗う殺し合いをはじめる。

 人間は進歩しない。人は過ちをくりかえす。佐原はまず、ミロシェヴィッチの大セルビア主義が戦争と民族浄化の主因だとする国連などによる公式見解を排する。残虐行為も民族浄化もセルビア人の専売特許ではなく、三民族は競い合って残虐行為をくりひろげた。
 そもそもミロシェヴィッチもトゥジマンも権力志向のオポチュニストであり、民族主義はたまたま権力奪取に有効だったから採用されたに過ぎないのだし、内戦の過程は大いに偶然に左右された。内戦はそれぞれの民族主義ゆえに起こったわけではない。問題はむしろ彼らが共通に抱いていたジェノサイドへの恐怖と被害者意識だった。民族主義のイデオローグたちはこぞって自民族こそが歴史的に被害者だったと主張した。セルビア人もクロアチア人もボスニア人(ムスリム)も。被害者意識から生まれるジェノサイドへの恐怖から、彼らは他民族を迫害したのである。

 つまり、ボスニア内戦を戦った三つの集団は同じ文化のなかで育った人々であり、身につけた文化に規定された行動をとっていたのである。彼らは同じ言語を話し、同じメディアを受容し、同一の教育制度の中で育成され、同じ消費文化を享受し、そして、何よりも同じ体制下で七〇年以上も共に暮らしてきたのである。彼らが共通の経験をもとに類似した価値観を持っていたとしても何ら驚くべきことではない……ボスニア内戦は、異なる価値観を持つ民族集団同士の「殺し合い」ではなく、同じ価値観と行動規範を持つ「市民」が混乱状態のなかで、互いの中に他者を見いだそうとした現象であった。そして、このことがボスニア内戦のもつ現代的意味であろう。

 それこそ、我々がこの悲劇から(そしてルワンダの悲劇から)くみ取らねばならない教訓である。人間は愚かで、進歩しない生き物なのであり、いかな文明も教育も蛮行を食い止めることはできなかった。

 家族や友人を守るといった具体的な対象があるならまだしも、「国」のためなり、「民族」のためなりに命を捧げるという曖昧な「正義感」はとてつもなく危険なものである。自分の命を大切にしない者は、他人の命など虫けらほどにも思わないからだ。

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コメント

それぞれが同じ教育と価値観を持っていたにも関わらず、
実は相手が何を考えているのか分からなかった結果として、
それに由来する恐怖を克服出来ずに殺戮に及んだって事なんでしょうか。
何だか「馬鹿の壁」みたいな話ですね。

投稿: byebye | 2008-05-22 15:19

ウスタシャによる虐殺も含め、ザグレブ市民がヒットラーを熱狂的に迎えた映像を挿入した『アンダーグラウンド』は大論争を巻き起こしましたね。千葉大で長く教授を務めた岩田昌征氏の『ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像』はセルビアが悪者にされていく過程を描写して圧巻ですが、今は国際世論からまったく見放されているコソボのセルビア系住民が心配です。

投稿: アジェンデ | 2008-05-23 17:08

↑すいません直上の投稿は削除してください。
ホフスタッターの「メタマジックゲーム」に拳銃を頭に押し付けた死刑台ブースに入って数人でやるゲームがありましたが、発射ボタンを押す人数が一定になれば所定の確率で銃が撃たれ、誰かがランダムに死ぬ。押した人も所定の確率で撃たれ得る。発射ボタンを押さない人は優先的に撃たれる。誰も押さなければ誰も撃たれないし、自分からボタン押しをすれば、何の意味もなく自分が撃たれるリスクを所定の割合で引き受けることになり、とっても非合理です。あえて発射ボタンを押すバカが一定人数いないと発射が起こらないとしても、「もしかしたらボタンを押すバカがいるかもしれない」との予期が最初の恐怖を引き起こし、もしも参加者が合理的であれば、ほかの参加者も合理的であると予想するでしょうから、この恐怖をほかの参加者も感じていると前提を置くでしょう。すると、ラカンのせきたて(三人の囚人の話)と同じ状況で、全員が最後のボタンを押さない一人にだけはなりたくないばかりに、おおいそぎでボタンを押すことになる。参加者のうちにバカが実在する必要はないが、バカがいるかも知れないと思う伏線は必要です。かつバカがいるかも知れないが参加者の過半は十分合理的だと予想できることが必要です。ボスニア内戦が同じ被害者意識をもつ同一文化圏内の市民同士で加速したのは、上と似ていると思います。ただ、同じ被害者文化なだけではだめで、全員の恐怖のせきこみが支配する最初の躓きが強く意識される必要がある。セルビア人にとってイスラム教徒はバカかも知れない候補でクロアチア人がドイツと組んで上手に振舞う合理的な他者であり、イスラム教徒にとってはセルビア人がバカも知れない候補でクロアチア人が合理的にみえ、クロアチア人にとってはイスラム教徒が自演をやりかねないバカでセルビア人がロシアと組みかねない戦術家にみえたのだろうと思います。それぞれの被害者伝説は他の二民族からみて嘘の割合が高いと思われる。○×君が引き金を引くとおびえて、みなが人殺しになるべく急き立てられた。だから、本当は、やっぱり差異が重要なのではありませんか???

投稿: anser29 | 2008-06-06 12:19

↑ 差異が重要というのはつまり、いろんな「民族」の主張をみて、そのわずかなウソ度を(何らかの方法で)計測し、それによってウソ度のもっとも高い民族にすべての責任を押しつけることが重要だという意味でしょうか。

柳下氏のポイントは、そうした多少の程度問題というのは五十歩百歩の鍋釜論争でしかないのでは、ということでしょう。

投稿: underground | 2008-06-08 21:48

undergroundさま
各々の民族にとって、ほかの二民族が色分けされてみえる点が、差異と称して私の意味したかったことです。第三者が客観的に嘘の度合いを測って並べる意味は(最初の投稿にはクロアチア人がわるいとありますが)基本的にありません。多少の程度の差が問題になってしまうこと(恐怖心が過剰に合理的な判断と結びついて暴走する(せきたてがおこる)キッカケ)がどう抑止されていれば、民族紛争が起こらないのか、その探求をアタマから放棄するのが「人間社会は迷妄でかわらない」「民族問題を賢しらに語る学者は実態を知らない」などの世迷言でしょう。われわれの暮らす社会とボスニア内戦の市民が暮らした社会に違いが少ないとしても、何かが決定的に違う、その探求なしに、ただただ「人間はおろかで進歩を知らない生き物だ」とか「鍋釜論争だ」とか繰り返すのは、たとえばフーコーマニアがポグロムもナチス絶滅収容所も区別できないのと同じ賢しらな議論だと思います。
文化を専門とする方が政治について発言なされると左右を問わず、結局は総懺悔論のようなひどく観念的な結論にしか結びつかない現場の論理を振り回すのは、まさに「人間はおろかで進歩を知らない生き物」の証左になりかねない行為です。環境問題でもそうですが、安全保障でも人類社会が着実によい方へ向かっています。私はこうった種類の現場の重さを売りにする軽薄なルポが特に日本にあふれていることがちょっと心配なのです。

投稿: anser29 | 2008-06-09 10:38

ぼくは基本的に「人類は愚かで進歩を知らない生き物だ」と思っています。その信念が覆されることは滅多にありません。個々にすばらしい文化的な営みがあり、ときに叡智にあふれる人物もいるでしょうが、それは個々の事例でしかない。「人類は愚かで進歩を知らない生き物」であり、ボスニアやルワンダが我々の生きる社会とまったく隔絶したものではないからこそ、ジェノサイドの理由を探求する「比較ジェノサイド学」に意味があるのではないでしょうか?

この本もぼくの信念の強化に使われてしまっている部分はありますが『ボスニア内戦』は決して「現場の重さを売りにする軽薄なルポ」などではありませんので、是非ご一読ください。

投稿: garth | 2008-06-09 11:27

著者の方は比較ジェノサイド研究なる分野をやっておられますが、これは暴力にかんするカルチュラルラルスタディズのようなもので、ああもいえばこうもいえる議論を長々と繰り返し、ジェノサイドとポグロムと民族浄化を統一的な観点で語ると称して実際的な紛争阻止の処方箋(武力介入や国連決議による紛争一方当事者への包囲網構築)を遅らせる効果ばかりが目立ちます。簡単にいえばセルビアなりパレスチナなり、従来の反戦平和運動の中でかわいそうなやられ役であった集団を擁護する三百代言の傾向が否定できません。暴力は人間の本質で、民族問題は全当事者が同じように悪く、結局は犯罪であって国際政治の問題ではなく、社会問題と同じ、そう結論つけるのであれば、具体的な紛争阻止の方策はいつまでも先送りになります。こうした素朴な疑問は専門家であっても庶民素人であっても等しく出てくるはずですが、そこにふたをするために、現場ルポで悲惨さだけを強調して第三者の考える力を奪う、まさに思考のジェノサイドのようなものだ、と強く怒りを感じます。長々と失礼しました。

投稿: anser29 | 2008-06-09 11:29

×カルチュラルラルスタディズ→カルチュラルスタディズ
追記
たとえば、客観的な第三者からみた正義を貫徹して紛争地域の争いの目を根絶しようとしても、ある正義は別の当事者には不正義でしかないのでかえって紛争を加速させる、だから正義より平和を優先するのであれば、処罰は後回しになるが、それでは紛争の根も依然存在し続ける。この種のジレンマは平和構築で現場に入った国際組織の関係者からはいくらでも出てきます。国際社会の側が一貫した介入基準や正義の基準がないと紛争への対処がアドホックになるが、引き換えに平和のパッチワークが可能だ、なる議論です。これは現場の声として建設的です。しかし、比較ジェノサイド研究は(平和な社会と紛争の絶えない社会の比較ではなく)、20世紀のジェノサイドや民族浄化あるいはポグロムの間の比較を延々と繰り返して、ジェノサイドの一般定義が可能かを試行錯誤していますが、結局は、それが難しい(だからジェノサイドなり民族浄化なりに国際社会が介入する一般的大義名分が存在し得ない)なるお題目を唱えています。比較と称して神学論争を自演している。これは私からみれば犯罪的な引き伸ばしにしかみえないのです。

投稿: anser29 | 2008-06-09 12:16

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