『すみれ人形』トーク
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本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)読む。たいへんおもしろかった。この本の主張を一言でまとめてしまえば、ケータイ小説は現代の女子中・高生のあいだで民間説話のように消費されている、ということになるだろう。これはたいへん卓見で、とりわけ
レイプや妊娠や不治の病といった不幸イベントを堪え忍んだ結果、「真実の愛」を見つければ全ての不幸なイベントがキャンセルされ、「幸福」になれるという信仰。それが、リアル系ケータイ小説を読む少女たちの心の中に存在する。だからこそ、「神様」とか「天使」とかいう宗教的概念が連発されるのだ。
という分析には蒙が啓かれた。本田透は「恋愛資本主義」の支配を訴えていたわけだが、どうとうそれは宗教にまでいたってしまったというわけだ。「自分探し」がひとつの宗教と化している……というと、なんだか香山リカみたいだな。
この恋愛信仰は、東京においては肥大化した資本消費主義社会のシステムと融合している。(中略)
一方、地方都市では、恋愛信仰はもっと素朴な、ある種の民間説話的な姿を取って「空気」のように彼女たちの周囲を覆っているのだ。
たぶんこれを地理的に分割されたものとして考えるのはかならずしも正解ではないのだろうけれど、こういう分析から学ぶところは多いね。少なくとも、これまでケータイ小説と文学をめぐって語られてきたさまざまな言葉の中では、もっとも納得できる説である。
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オリオン書房立川ノルテ店でのトーク、おかげさまで盛況で終わりました。法月綸太郎さん、大森望さん、どうもありがとうございました。
新本格作家の卵たちが『見えないグリーン』を読んで、「現代もので本気のパズラーをやってもいいんだ!」と意を強くしたという話を聞いて胸が熱く……そして「スラデックって不器用というか、頭が悪かったのではないか(だからほどよいところでやめられずに誰も望んでいないところまで突き進んでしまう)」と我々が言っていると、「すごい偉い作家だと思ってたけど、あれは間違いだったんだろうか……」と一人ごちる法月氏。
わりと一般的な話を集めたもので、スラデック・マニアからは不満が出るかもなあ、とは思っていたのだが、やはり大森望からは「あと五編くらい削れば傑作だったのに。『超越のサンドイッチ』とか要らないんじゃないの」と言われてしまった。一方で法月氏は「二篇目の『超越のサンドイッチ』で(これなら意味がわかる!と)ほっとしました」と……
『黒い霊気』での「官僚制が勝利をおさめ、この世には、もはや聖人も狂人も道化も存在しえなくなった。名犯人すら、どこにもいない」(p.17)という一節についての風見潤氏の発言が波紋を呼んでいるようですが、原文を確認してみたところ、別に作っているわけではなくて翻訳通りでした。たぶんmaster-criminalを「名犯人」とした訳語を各務氏からヒントをもらったということなのだろうなあ。
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洋泉社から映画秘宝MOOKの『ショック! 残酷! 切株映画の世界』が発売になりました。映画における残酷表現、手や足がすぱっと切れて切り株になってしまう描写を称揚する「切株派」の美学を訴える血まみれの本です。
ぼくは『クラッシュ』文庫化記念でデヴィッド・クローネンバーグ/J・G・バラードの『クラッシュ』メイキングについて書いた「交通事故とフェティシズムの切株世界」と『哀しみのトリスターナ』についての小エッセイを寄せています。本の中ではあきらかに浮いてますが、まあそういう原稿も一本ぐらいはあったほうがいいでしょう。『クラッシュ』論については3月に発売予定の創元SF文庫版解説とあわせて読んでいただけるとよろしいかと。
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まあなんかの間違いで見てしまうということはあるだろう。あるいはピンク映画、または映画はすべて見るという欲望に駆られて見に行く人もいるかもしれない。でも、わざわざこんなものを見ようと思って劇場に出かけるような酔狂はぼくぐらいしかおるまい。日本でただ一人? いや、ということは世界でもぼく一人なのか? なんかすごいことをしているような気がしてきたが、たんに時間の無駄をしているだけのことである。
前振りが長くなってしまったが、池袋シネロマンに『兄嫁の夜這い すすり泣く三十七歳』を見に行った。2000年の関良平監督『三十路兄嫁 夜這い狂い 』の改題版。『わいせつ女獣』を見てからというもの関良平作品の奇怪なる魅力から離れられなくなってしまったのである。その期待にたがわず、映画はすさまじくシュールな展開を見せる。
ヒロインはフィリピン人ホステスのような顔をした寸胴の女、鈴木エリカ。なぜか片言の関西弁で喋る。ものすごく下手な主題歌があるのだが、ベッド際にレコジャケが飾ってあったところを見るとこの鈴木エリカが歌っているらしい。歌手でもあるのだろうか? 是非全曲聞いてみたいものだ。
ミサ(鈴木エリカ)は相模原あたりのログハウスに住んでいる。ある日黙ってバスに乗って出過桁ミサは謎の男と抱き合っている……かと思うと家に帰ってきてネギを刻んでいる。実は「おっちゃん」と呼ぶ中年男の貞淑な妻なのだ。この映画、自由自在に登場人物の妄想と過去と現在とが切り替わるので、見ていてもそれが現実に起こっていることなのかただの妄想なのかまったくわからない(「現実」部分にもリアリズムはかけらもないので、すべてが妄想でもおかしくない)。きわめて難解きわまりない映画なのである。
「おっちゃん」はミサに、三年ぶりに弟が帰ってくると告げる。ミサと弟アキラとはかつて過ちを犯したことがあり、アキラはそのために家を出てしまったのだ。ところでミサの旦那は最後まで「おっちゃん」としか呼ばれないので、名前があるのかどうかもわからない。弟からさえ「おっちゃん」と呼ばれるのだ!
ミサと弟を家におき、出かけた「おっちゃん」は高校生と援交の真っ最中。「どこか静かなところに行きましょ」と誘われた「おっちゃん」は車で河原に向かう(なぜだ!)。ひとりきり石投げして遊んだあと、今度は森の中で追いかけっこ。腹の出た「おっちゃん」が息を切らしてひいひい言ってると、女子高生は立ち止まってパンツを脱ぎはじめる。「あれ、おしっこしたいの?」(違うだろ!)さっしの悪すぎる「おっちゃん」も顔を胯間に押しつけられるとようやくその気になっていきなりその場ではじめる。「おっちゃん」と女子高生のセックスはカットが変わるたびにやってる場所が変わるシュールなシークェンスで、テトラポッドにつかまってやってたかと思うと神社に飛び、最後は稲刈りの済んだ田圃で超ロングの騎乗位。なんだかラス・メイヤー映画のようだった(編集・関良平)。
そのころ、最初にミサと浮気していたバーテンは巨大な蝶々のイヤリングをつけた女をバーカウンターの上に横たえ、セックスの真っ最中だった。
「あの関西弁の女はどうなったの?」
「どうなろうとおまえには関係ないし、俺にも関係ない」
「だからあなたと付きあうと人は変わってしまうのね……あの女もいずれは」
ロブ=グリエそこのけの茫漠とした会話を交わしていると、アキラとの再会で情欲に火がついたミサから電話がかかってくる。「ねえ、テレホンセックスしてくれない?」
「いいとも。今、ちょうど他の女を抱いているところだ」
……ってクンニしながらテレホンセックスは無理だから!
ああ、謎のセックス・シーンとか奇妙なカメラ・アングルとか不思議な母乳とかに触れているヒマがなくなってしまった。ドリス・ウィッシュマン+ラス・メイヤーともいうべき、ある意味今年見た中でいちばん凄い映画である。ぼくがピンク映画を見始めたきっかけのひとつ、他のどこにもない映画表現を求める探究心はまちがいなく満たしてくれる映画であった。
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アエラムック『ニッポンの映画監督(AERA MOVIE)』で、アンケートを依頼された「21世紀の日本映画」ベスト10が発表されています。ぼくの投票は以下の通り。
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なぜかこのアンケートが実写作品に限定されているので挙げられないが、21世紀の邦画を語りたいならまず何よりも挙げられるべきは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001 原恵一)である。
全体の結果についてはムック本誌の方で。
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『ポル・ポト ある悪夢の歴史』(フィリップ・ショート 白水社)を読む。
1975年からおよそ三年のあいだカンボジアを支配し、恐ろしい粛正によって150万人の自国民を殺害したクメール・ルージュの指導者ポル・ポト(本名サロト・サル)の伝記である。徹底した秘密主義を貫きとおし、自分の本心も決してあかさなかった男の生涯を膨大な資料からあぶり出す力作。一気に読まされた。
興味深い指摘は多々あるが、いちばんなるほどと思ったのは劣等生だったポル・ポトをはじめ、イエン・サリやキュー・サムファンといったクメール・ルージュの指導者たちが、いずれもマルクスをちゃんと読んでいなかったという話である。『共産党宣言』はともかく、『資本論』は難しすぎて読めなかった。だからクメール・ルージュの革命思想は本当にマルクス主義なのかどうかもよくわからない、というのだ。むしろカンボジア伝統の上座仏教の影響を強く受けているとされる。まあ、そう言い切ってしまうのもどうかなと思うのだが、興味深い指摘なのは事実。彼らは毛沢東思想の影響を強く受け、農民革命の思想を作りあげる。
大衆の解放は大衆自身によってなしとげられなければならない--これがマルクス=レーニン主義の基本原理である。革命や人民による戦争は、どこであろうと、その国の大衆のなすべきことであり、まず大衆自身が実行にうつさねばならない--ほかに方法はないのである。(中略)自立の精神を忠実に守り、自国の大衆の力に頼り、たとえ国外からの物的援助がすべて絶たれても単独で戦い続けることが肝要である。(中略)結局のところ、人民の闘いを(中略)おこなうか否か(中略)は、偽の革命家と本物を見分けるのにもっとも有効な目安になるのだ。(中略)農民は帝国主義者とその追従者らに対する国家の民主主義革命の主力である。(中略)革命家が最終的な勝利に向けて歩み出す基地を地方だけが提供できるのだ。
林彪「人民の闘いの勝利万歳!」
クメール・ルージュは東北部の密林に根拠地を築き、解放闘争にとりかかった。プノンペン北西部の古都ウドンを占領したときには、住民を全員都市から追い出す。これは来るべきプノンペン解放の青写真となった。
ウドンの避難民を地方に定住させるにあたって、特に大きな問題がなかったという意味ではうまくいった。町の住民たちも特に問題を起こさなかった。強制移住は、われわれの軍勢を揺るがそうという的のもくろみをくじく抜本的な解決策であり--また同時に内部政策でもあった。幹部を都市部の人間の知覚に住まわせておくと、政治的および観念的に堕落するおそれがあるからだ。かれらが都会風の新しい環境に影響を受けてしまう可能性がある。(中略)町の住民を退去させれば、その危険は回避できる。われわれの最終目標はプノンペンの解放であり、そのためには政治的および観念的立場をとぎすます必要があることを理解しなければならない。幹部たちが「ブルジョアの見かけの良い弾丸」を避けることができるように? まさにその通りだ!
--フィ・フォン 1974年3月
そして、いまだかつてなかった革命がはじまる。都市を廃止し、貨幣を廃止し、家制度を廃止し、新しい言葉を作り、新しい民族を作りあげる。オーウェルの悪夢がついにこの世に実現する。
いかにして共産主義革命をおこなうか? まず私有財産を破壊しなければならない。だが私有財産は物質と精神の両面に存在する。物質的な私有財産の破壊には、街の強制退去という適切な方法があった。だが精神的な私有財産はさらに危険だ。それはおまえが「自分のもの」と思うもの、自分に関連した存在と考えるもの--両親、家族、妻--すべてを指す。「わたしの……」と呼ぶものすべてが、精神的な私有財産なのだ。「わたし」と「わたしの」について考えることは禁じられている
--キュー・サムファン 1975年10月
ぼくがいちばん興味を持っているのはこの部分である。つまり、ポル・ポトの理想はいかに実現され、その過程で百五十万人はいかにして死んでいったのか? キュー・サムファンの言葉にはぞくぞくする。本文中にはまさにこの理想を奉じて自己改造した西欧人も登場する。彼女の言葉はすばらしく興味深い。人間はいかに自我を捨てるのか? この部分をこそ知りたかったのだが、残念ながらそれほど詳しくは書かれていなかった。やはり『キリング・フィールド』とかを読むべきなのかもしれない。
不満なのは記述があまりに英雄史観に偏っており、すべてを指導者の個人的資質に寄与させすぎなではないかと思われる点だ。伝記というかたちをとった以上、そうならざるを得ないのはわかるが、国際政治まで含め、いささか単純化しすぎな気はする(とはいえ、複雑きわまりない政治ゲームをプレイするシアヌークがきわめて魅力的な人物なのはたしかなのだが)。ヴェトナムが介入した時点で、クメール・ルージュの支配がとんでもないことになっているのは世界中でわかっていたわけで、あれを人道的な意味を持たない単なる防衛的反応として記述してしまうのはヴェトナムに対して厳しすぎる気がする。
もうひとつ、自己批判を旨とするクメール・ルージュの教義には文化大革命からの影響が色濃いと思われるのだけど、そこにあまり触れていないのもちょっと疑問。
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監督・脚本:片岡修二 出演:下元史朗、早乙女宏美
片岡修二のたぶん最高傑作であるところの一本。『SMクレーン宙吊り』と改題されて浅草世界館で上映中なので見に行く。
下元史朗演じるは“悪魔のサディスト”地獄のローパー、投げロープでどんな女もあっという間に亀甲縛りにとらえ、吊して引っ張ったロープをピン!とはじくと女はたちまち喘いで陥落……どんな女もたちどころに調教するアイパッチをした最強のサディストなのである。ローパーはさる男の依頼を受け、女暴走族“ボンバーズ”のアジトに潜入する。ボンバーズのリーダー、真知子にさらわれて監禁逆レイプされていた恋人を救い出すためだ。ローパーは難なく少年を救いだすが、真知子はローパーの調教が忘れられず彼の元を訪れて……
もう片岡修二も下元史朗もノリノリで撮ってたのがよくわかる一本で、いきなり聖書を引用してみたり(「欲孕みて罪を生み、罪成りて死を生む!」)、さる名作のパロディがはじまったり、ギャグもやりたい放題なのだが、どれも滑らないあたりが絶好調時の勢い。クライマックスはタイトルにもなっている「クレーン宙吊り」なのだが、もはやSMの興奮などどこにもなく、『ビックリ日本新記録』でも見ているかのようなあっけらかんとした感動に包まれる。記録、それは儚い……
その後『やりたがる女4人』(07 深町章)を見てあまりのことに死亡。気がついたら場内にいたのはオレ一人だった……
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監督:今井和久 主演&製作総指揮:長嶋一茂 公式サイト 三月公開
一茂、何がおまえをそうさせるのか? なぜかいきなり製作総指揮まで勤めてお送りする日本郵政株式会社PR映画。ケビン・コスナーは出てきませんが西川善文日本郵政社長は出演しています。
長嶋一茂は房総半島の先の方の郵便局の一配達員、雨の日も槍の日も、「会えなくても、郵便さえあればつながっている」の思いを胸に、愛用のバタンコ(配達用自転車)を駆って郵便を届けつづける。三年前に妻を亡くし、中学生の娘(北乃きい)と息子の三人暮らしだ。職場ではダラダラ仕事をする今時の新人に「ゆうメイト」の心得を叩きこむ。「俺たちが届けるのは、郵便だけじゃない、その人の気持ちも運んでるんだ……!」
そんなある日、毎週かならず青い封筒で決まった相手に手紙を出す老人(犬塚弘)の家に行った一茂は、老人が倒れているのを発見する。窓ガラスを叩き割って老人を救い出し、病院にかつぎこんだ一茂は、老人の書いた今週の手紙が出されずじまいになっていることを知る。「…手紙が来ているうちは無事だって証拠だからね…」老人の言葉を思い出した一茂は…「この手紙が届けば、あの人は死なない!」
一茂は小田原の宛先住所へ向かって一路バタンコを駆る! 走れ、一茂!
…と書くとてっきり冗談だと思うでしょうが、本当にこういう映画です。世の中にはいろいろな映画がある。
それにしても原沙知絵の代用教員、トレーナーの勉強するために米国留学するとか言ってたが、それより一茂の異常な体力の謎を研究した方がいいと思うよ!
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1976年、オーストリア人のジャック・ウンターヴェーゲルは少女を殺害し、終身刑を受ける。獄中で彼はそれまでの人生を回顧した「煉獄(Fegefeuer oder die Reise ins Zuchthaus)」という本を出し、ベストセラーとなる。“文学者”ウンターヴェーゲルへの同情はあつまり、彼は1990年に仮釈放される。
1990年、ウィーンで謎の娼婦連続殺害事件が起きた。文壇の寵児だったウンターヴェーゲルはラジオのレポーターとして恐怖に怯える娼婦たちを取材する。91年、ウンターヴェーゲルは取材のためにロサンジェルスを訪れる。そのころ、ロサンジェルスの警察は謎の娼婦連続殺人に頭をひねっていた……
話としてはジャック・ヘンリー・アボットなんかの件と同じパターンなのだが、スケールがでかすぎる。オーストリアではその自伝も映画化されているし、「ジャック・ウンターヴェーゲルが逮捕された日(Der Tag, an dem sie Jack Unterweger fingen)」なんてタイトルの映画もあるようだ。
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