〈グラインドハウス〉の米国公開版第一回上映を見るため悪の塔ロポンギルズへ向かう。入りはちょぼちょぼ。絶望した!本年ナンバー1の傑作が一週間しか見られないというの百人ほどしか集まらない映画マニアに絶望した!
まあ木曜日の深夜12時からの上映では人が来ないのもしょうがない。しかし公開初日にみんな集まって大騒ぎ、みたいな習慣ももうなくなってるってことなんだろうね。来ているのは知り合いばかり。別に示し合わせたわけでもないのに来ている鷲津義明とかも含め、半分近くが友人知人だったような気がする。映画の世界は狭いなあというか、タランティーノが閉じてるだけなのか…
しかし映画は素晴らしかった。『デスプルーフ』は、実は単独公開版(『デスプルーフinグラインドハウス』)とは編集もまったく違っていて、ほとんど別の映画になっている。出来はあきらかに締まった編集になっている〈グラインドハウス〉版の方が上だろう。でもぼくは単独公開版の方が好きだ。タランティーノの女性への優しい(助平な)視線がより強く出ていて、バタフライのキャラがちゃんと立っているからだ。
ところで『デスプルーフ』については、ぼくのような人間が素晴らしさを語れば語るほど客を遠ざけてしまうのではないかというジレンマを感じずにはいられない。『デスプルーフ』の面白さを語るとなると、どうしてもダッジ・チャレンジャーが出てきたりフィルムに汚しを入れたりFeature Presentationの音楽を聴いただけで泣けてくるというようなフェティッシュな部分を語ってしまうわけだけど、あの映画はそれだけではない。『デスプルーフ』が素晴らしいのはどこか映画の魂に触れてしまっている部分があるからなのだ。驚異のアクションからゾーイ・ベルが箱乗りして「いっけー!」とおたけびをあげ車が走りだす瞬間の高揚、あの場面は何度見ても泣けてしまうのだが、それはなぜなのか。これは決して「フェティッシュな部分もあるが、それだけではなくて映画の魂に触れている」のではなく、「フェティッシュを突き詰めたがゆえに映画の魂に触れてしまった」ということなのだと思う。あくまでもグラインドハウス映画ゆえの感動なのだ。
グラインドハウス映画の奥底、低予算とひどい演技とやっつけの演出の底には映画の魂が潜んでいる。『キル・ビル』でも一瞬つかみかけていたのだが、今度こそタランティーノは見事それをつかみとって見せたのだ。
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